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   <title>日本の城、世界の城</title>
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   <subtitle>あんな城やこんな城</subtitle>
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   <title>あらぬものが肥料</title>
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   <published>2010-08-30T02:16:27Z</published>
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      高昌城の建築材料であるあの天日干しの方形土塊は、あのなかになにを混ぜてあるのか、粉砕して畑に撒いておけば、じつに有効な肥料になるそうだ。

農民たちは、城壁や建物の土煉瓦を崩し、車に積んでは自分たちの畑に運んで肥料とした。

大量運搬の輸送器具が発達していなかったのが、せめてもの幸いであったといわねばならない。


土煉瓦だけではない。

そのようにして造られた装飾品まで、畑のこやしにされてしまったのである。

千数百年の歴史をもった骨重品の肥料で、高梁や棉花がみのったわけだ。


現在、カラホージャは、「高昌故城」として、保存が講じられている。

そのあたりは、文物(文化遺産)管理の責任者がいて、遺跡を構成する物を、肥料にしないように、農民たちに教えている。
      
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   <title>城が残った理由</title>
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   <published>2010-08-15T11:10:00Z</published>
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      シルク・ロードのオアシス都市国家は、東西交易の仲介者として栄えたのだが、人口四万足らずていどでは、軍事的な強国になることはありえない。

防衛のためには、もっと強大な勢力と結び、その力を借りるほかなかった。

ときに唐につき、ときに西突厭についたりする。


勢力の均衡が失われると、国家の基礎が危うくなり、ついには亡国の悲劇をみることになる。

文化財が畑のこやしに唐に、ウイグルに、そしてモンゴルに、この城はなんども滅ぼされた。

そして、500年もかえりみられずに、沙漠にうちすてられでいたのに、廃嘘にせよ、よく残ったものである。


その理由は、第一に焼けなかったことだ。

沙漠のオアシスでは、材木がすくない。

建築材料は、どんな宏壮な宮殿でも、例の天日に干した土塊で造られる。

火を放っても炎上しないのである。


極端に雨量のすくない乾燥地帯なので、溶け崩れることがない。

本来なら、もうすこし完全に残っているべき遺跡であるが、火や水ではなく、思いもかけぬ敵がいて、そのため現在のように、崩れ残った形になったのだ。


その敵とは人間---農民である。
      
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   <title>高昌城が廃嘘に なって５００年</title>
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      唐末に高昌城はウイグルに占領されたが、ここはやはり国都として栄えた。

トルファン盆地の中心が、ここから現在のトルファン県城のあたりに移ったのが１５世紀というから、高昌城が廃嘘になって、もう５００年ってるのだ。


ふつうの民家はとっくに崩れて、現在まで残っているのは、大きな宮殿や寺院、そして城壁である。

この廃嘘を調査したスタインは、面積二・五平方キロと述べているが、その地をじっさいに訪ねて、廃擁に立ったかじは、もうすこしひろいの、はないかという気がした。
      
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   <title> 高昌と唐との関係</title>
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      玄装が訪問したころ、高昌と唐との関係は良好だったが、１２年後の貞観十四年(六四〇年)関係が悪化し、唐はこの漢人王国の高昌を滅ぼし、安西都護府の管轄下に置いたのである。

高昌国滅亡当時このまちの人口は三万６０００で、戸数８０００といわれている。

古習臼はおそらく、武帝時代に漢人の屯田によってひらかれたと思われる。


はじめは、「高昌壁」と呼ばれたのだから、人が住みはじめると、すぐに壁でその地域を囲ったらしい。

城と呼ぶにはまだお粗末だったので、遠慮して壁と称したのだろう。

その後、しだいに充実したので、城と呼ぶのがふつうになった。
      
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   <title>高昌城…カラホージャ</title>
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      高昌城は哈拉和卓(カラホージャ)とも呼ばれるが、玄装がインドへ旅行したとき、この地にしばらく滞在したことで知られる。


ここは西域だが、古来、漢人の居住地区で、玄装のころも、麹氏という漢人の王をいただく都市国家であった。

そして、やはり中国ふうにまちを城壁で囲んだ。

嘉硲関のあたりの長城とおなじく、焼成していない土煉瓦の壁や建物が、千数百年の風霜を経て、いまに残っているのだ。
      
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   <title>中国の戦国時代の各国の長城</title>
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   <published>2010-06-15T10:43:43Z</published>
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      中国では戦国時代に、各国が長城を築いた。

燕の長城、趙の長城、魏の長城などのほか、斉にも楚にも長城があった。


秦の始皇帝は、諸国の長城をつなぎ合わせ、補強したのにすぎないのだ。

万里の長城は遼東から現在の甘粛省の臨挑にいたっている。


以前、甘粛を旅行して、嘉硲関が長城の西端であるという説明をうけたが、それは明代に延長した部分である。

すでに雨量のすくない地域なので、天日で干したままの土煉瓦を積んだ壁であった。


それを見て、新彊ウイグル自治区トルファン県にある「高昌城」の遺跡を思い出した。
      
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   <title>日本にも長城？</title>
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      おそるべき外敵が存在したのだ。

その外敵のなかには、猛獣のたぐいも含まれる。


日本の城は牙城であり、まちは城壁をもたないのは、防ぐべきほどの強い外敵がいなかったから、その必要がなかったのである。


そして、国からみた場合、四囲が海なので、この自然の長城はどんな高い城壁よりも堅固な防壁であった。

自然にそれが存在したので、日本には長城思想はもとより、住民を城壁で囲む考えも生まれなかった
      
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   <title>中国の長城思想</title>
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   <published>2010-05-15T08:40:42Z</published>
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      城という字は「土にて成る」という、きわめて明快な意味をもつ。


土を盛りあげて、外敵を防いだのである。

盛りあげた土を、煉瓦状の傳や石でかためるようになったが、中国の西北の雨のすくない地域では、土を煉瓦状にかため、それを天日に干したままのものを積み重ねる。


乾燥地帯なので、焼成しないでも、雨で溶け崩れるおそれはない。

ともあれ、中国ではまともな人間なら城のなかに住むものだという考えがある。

農民たちも、鶏鳴とともに起きて城門を出て田を耕し、日が暮れると城内に帰るという生活をしていた。


この考えが拡大されると、国ぜんたいを城で囲むという「長城」思想が生まれたそうだ。
      
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   <title>中国の牙城</title>
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      中国では黄帝のむかしから、天子や大将軍の居所を示す天子旗、大将軍旗といったものは、旗竿のてっぺん、現在の旗ならまるい球のついている部分に、象牙をはめこんだのである。

あの大きな象牙一本がとりつけられているので、かなり大きな旗でなければならない。

それを牙旗、あるいは大牙旗と称した。

牙旗のひるがえる城が、すなわち「牙城」なのだ。


日本でいう城は、中国の牙城に相当すると考えてよいだろう。

江戸のまちぜんたいが、中国語では城であり、そのなかの千代田城が牙城にあたる。
      
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   <title>城のなかの城</title>
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      日本で江戸城といえば、徳川将軍の住んでいたあの濠に囲まれた千代田城のことで、けっして江戸のまちを指して呼ぶのではない。


中国では城壁で囲まれたまちのなかの、大将軍およびその家臣団が守りをかためている場所に、またしても城壁がつくられる。

城のなかの城であり、これが日本の千代田城や大坂城の城に相当する。


中国と日本の城では、こうした定義上の違いも存在しているのである。
      
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   <title>中国の城と日本の風土</title>
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   <published>2010-03-30T01:38:06Z</published>
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      中国の城と日本の城には違いがある。


まちを高い城壁で囲むことなど、あきらかに日本では不必要なことであった。


奈良も京都も、長安をモデルにして、その規模を小さくしてつくったみやこである。

天子の居所の南に朱雀路というメインストリートがあり、それを境に左京と右京に分れる。

碁盤の目のような、整然とした区画の集合体であることなど、まったくおなじだが、この首都を囲む城壁は、奈良にも京都にもない。


日本で江戸城といえば、徳川将軍の住んでいたあの濠に囲まれた千代田城のことで、けっして江戸のまちを指して呼ぶのではない。

中国では城壁で囲まれたまちのなかの、大将軍およびその家臣団が守りをかためている場所に、またしても城壁がつくられる。


城のなかの城であり、これが日本の千代田城や大坂城の城に相当する。
      
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   <title>中国の城</title>
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   <published>2010-02-28T12:23:22Z</published>
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      中国で「城」といえば、まちを指すことが多い。

現代中国語でも、都市というよりは城市という表現のほうがふつうである。


まちは城壁で囲まれているのだから、この表現には抵抗はなかった。

日本はその文明の揺藍期に、遣唐使を派遣するなどして、さまざまな中国の文物を採りいれ、律令国家をつくりあげた。

それはかなり忠実な唐制の縮尺版であったといえる。


それでも、日本が採りいれなかった中国の制度があったが、そのおもなものは、宙官、科挙、そして城郭の制度である。

日本の風土になじまなかったのだが、それよりも必要がなかったのでもある。
      
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   <title>水戸城</title>
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   <published>2010-01-30T09:46:59Z</published>
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      <![CDATA[現在の茨城県水戸市三の丸にあった城。
徳川御三家の一つ「水戸徳川家」の居城。
茨城県指定史跡。三の丸にある藩校・弘道館は国指定特別史跡。

<a href="http://yourhometeam.info/9755757.jpg"><img alt="9755757.jpg" src="http://yourhometeam.info/9755757-thumb.jpg" width="350" height="234" /></a>

旧水戸城の城郭は、見学できる場所とできない場所に分かれている。
旧本丸 - 茨城県立水戸第一高等学校の敷地になっており、見学目的での立ち入りも可能。
旧二の丸 - 道路以外の学校敷地内には常時の立ち入りができない。
旧三の丸 - 水戸市立三の丸小学校を除き、弘道館は有料で、その他の敷地は無料で立ち入りができる。
今は高校の敷地ってのもおもしろいですね。
見学出来るので行ってみてもおもしろいかも・・・。
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   <title>土浦城</title>
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   <published>2009-12-30T08:16:52Z</published>
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      <![CDATA[常陸国新治郡にあった城。

<a href="http://yourhometeam.info/8755805.JPG"><img alt="8755805.JPG" src="http://yourhometeam.info/8755805-thumb.JPG" width="330" height="247" /></a>

現在の茨城県土浦市に位置する。室町時代に築かれ、江戸時代に段階的に増改築されて形を整えた。幅の広い二重の堀で守る平城。
天守は作られなかった。太鼓櫓門が現存し、東西二か所の櫓が復元されている。
土浦は度々水害に遭っているが、その際にも水没することがなく、水に浮かぶ亀の甲羅のように見えたことから亀城（きじょう）の異名を持つ。茨城県指定史跡第1号。

西側の本丸寄りにはミニ動物園として、日本猿が数匹飼われている。

本当にミニです。]]>
      
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   <title>岩村城</title>
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   <summary> 岐阜県恵那市岩村町にある中世の山城跡で、江戸時代には岩村藩の藩庁であった。 付...</summary>
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      <![CDATA[<a href="http://yourhometeam.info/5467753.JPG"><img alt="5467753.JPG" src="http://yourhometeam.info/5467753-thumb.JPG" width="400" height="300" /></a>

岐阜県恵那市岩村町にある中世の山城跡で、江戸時代には岩村藩の藩庁であった。
付近は霧が多く発生するため、別名・霧ヶ城とも呼ばれる。「女城主」悲哀の物語が残る。
日本三大山城の一つに数えられている。
廃城令により、1873年（明治6年）城は解体され石垣のみとなった。藩主邸は残されたが、1881年（明治14年）に全焼した。跡地には1972年（昭和47年）岩村町歴史資料館が開館した。1990年（平成2年）藩主邸の一部、表御門・平重門・太鼓櫓などが復元された。

2006年（平成18年）には日本100名城の一つに指定され、2007年（平成19年）6月から全国規模の日本100名城スタンプラリー（38番）が開始された。

いつか自由な時間が出来たら一気に城のスタンプラリーに挑戦したいなぁ。
中学生のときにやった以来やってないですし。
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